[ワールドカップ連載・第11回]ストライカー英雄伝説~ミヤトビッチ編~

[ワールドカップ連載・第11回]ストライカー英雄伝説~ミヤトビッチ編~

ども~。つぶおです~。

ここ数年で携帯電話に変わってスマートフォンが主流になってきているみたいだけど、スマートフォンやタブレットと言えばタッチパネルだね。

そしてさらには、パソコンにもタッチパネルの波が押し寄せてきている。

それにしても、なぜあんなにもたくさんの企業がタッチパネルをグイグイ押してくるのか!?意味が全く理解できない(=_=)

タッチパネルっていい?タッチパネルって便利?

僕は全然そうは思わない。どっちでもいいとかではなく、要らない

特に利便性がない上に、画面を消したり、暗転したりする時に手垢がモリモリ見えるのイヤでしょ。

あれはどんなに手を洗っても付くものだからしょうがないけどね。

タッチパネルっていいね!!って思っている人がいるならその理由を教えて欲しい( ̄◇ ̄;)

 

さて、今回の英雄。

いろんな時代があった国。セルビアからご紹介したい。

昔はユーゴスラビアだった国で…ごめんなさい。それぐらいしか知らない(;_;)

 

ま、とにかく英雄を見ていこう!!(;´Д`)

 

セルビアの英雄・ミヤトビッチ

プレドラグミヤトビッチ」これがこの人の本名でフルネーム。

サッカーファンの間では「バルカンの速射砲」とも呼ばれている。のかな。

なんだこのニックネームは。と思ってしまうけど、それはきっと日本語だからおかしいんだと思う。

洋画でよくある、センスのない邦題が原題と全く違っているのと同じ。

「速射砲」ってねぇ。「昨日のバルカンの速射砲のシュートすごかったねぇ」とかいう会話にはならないね。きっと。リングネームみたいな感じと思ってもらえればいいと思う。

シュートを放つ時の足の振りの鋭さから来ている

ミヤトビッチは1969年1月19日。モンテネグロ・ポドリゴリツァで生まれた。

ユースチームを経て、1987年。

ミヤトビッチ18歳の年に地元のクラブ「ブドゥチノスト・チトーグラード」でプロサッカープレイヤーとしてデビューする。

この年のワールドユース(20歳以下の世界選手権大会のこと。「アンダー・トゥエンティー」とかたまに聞くでしょ。)に出場。

ユーゴスラビア代表の優勝に貢献する。

1987・88シーズンには、クラブでのレギュラーポジションを獲得し、31試合に出場した。

 

1989年に「パルチザン・ベオグラード」へ移籍。

デビュー戦は古巣の「ブドゥチノスト」との試合となったが、その試合で得点を記録する。

ものの、この年の成績はイマイチに終わった。

しかし、その翌シーズンには14得点を記録する。

1991・92シーズンには国内カップ獲得。

1992・93シーズンにはクラブのリーグ優勝に貢献した。

 

1993年には「リーガ・エスパニョーラ(スペインのプロサッカーリーグ)」の名門「バレンシア」へ移籍。

ミヤトビッチにとって、スペインサッカーが合っていたのかもしれない。

ミヤトビッチがバレンシアの主力選手になるのに時間はかからなかった。

移籍後のリーガ・エスパニョーラ初シーズンは35試合に出場。16得点を記録。

1995・96シーズンには28得点を記録(リーグ2位)。

1996・97シーズンからは、さらに名門「レアル・マドリード」へ移籍。

ダヴォール・シューケルラウル・ゴンサレス二人ともスーパーストライカー)と3人で強力な攻撃陣と形成。クラブのリーガ・エスパニョーラ優勝に大きく貢献した。

怪我に苦しみながらも素晴らしい活躍を見せる

翌シーズンはケガに苦しむことになるが、UEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成。

その翌年はラウルとモリエンテスを優遇するクラブの方針により、ミヤトビッチにとって不遇の時代となる

そして、1999年。シーズン終了後にセリエA(イタリアのプロサッカーリーグ)のクラブ「フィオレンティーナ」へ移籍。

が、またもケガに苦しみ、大きな活躍はできなかった。

2001・02シーズン後にクラブが消滅(゜レ゜)

イタリアのいくつかのクラブからのオファーがあったものの、当時2部リーグ「セグンダ・ディビシオン」に所属していた、スペインのクラブ「レバンテ」へ移籍。

ここで1シーズンを過ごした後の2003年。現役引退を発表する。

ミヤトビッチの代表チームでの成績は、通算73試合出場、28得点

また、2006~2009年まで、レアル・マドリードのスポーツディレクター(選手トレードの際の移籍金交渉や、所属選手の契約条件の調整などが主な仕事)を務めた。

 

ミヤトビッチが不幸だったのは、時代に翻弄されたことにあると思う。

 

サッカー選手として天性の才能に恵まれながら活躍の場が限られたことだろう。

ミヤトビッチがサッカー選手としてピークを迎えた時期、当時のユーゴスラビアが内戦状態にあったためにスポーツの世界から事実上締め出しをくらっていたのだ。

もし他の国、他の時代に生まれていたら違う伝説を残したのかもしれない。

個人的にはケガが多かったのは残念なところ。

しかし、その卓越したサッカーセンスとずば抜けた能力は英雄に値する選手だと思う。

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