[ワールドカップ連載・第5回]ストライカー英雄伝説~バティストゥータ~

[ワールドカップ連載・第5回]ストライカー英雄伝説~バティストゥータ~

ども~。つぶおです~。

自宅に宅配の人が来ることがたまにあると思うけど、あの人たちの呼び方っておかしくない?

ほとんどの人が呼び鈴鳴らした後に、必ずドア叩くよね。

なんで叩くの!?(##゚Д゚)あれの意味がわからない。

どう考えても呼び鈴の方が聞こえるでしょう。

あと、鳴らしから叩きまでの時間が異常に短い。ひどい時は名前を叫びやがる。

待ち構えてたわけじゃないからそんなに早く出れねぇよ(`-´メ)

 

さて、今回の英雄。

南米アルゼンチンといえばもちろんマラドーナが有名なんだけど、マラドーナだけじゃぁない。

アルゼンチンには他にも英雄がいるのだ。

 

1978年には、ワールドカップ・アルゼンチン大会が開催されたこともある。

ブラジルに次ぐ南米のサッカー大国。

あと、アルゼンチンといえば、革命家のエルネスト・チェ・ゲバラを知っている人もいるかもしれない。

 

今回は、アルゼンチンが生んだ英雄をご紹介しよう。

アルゼンチンの英雄・バティストゥータ

「ガブリエル・オマール・バティストゥータ」これがこの人の本名でフルネーム。

サッカーファンの間では「獅子王」とも呼ばれている。

1969年、アルゼンチン・サンタフェ生まれ。

バティストゥータの一番すごいのはやっぱり「シュート」。環境をものともせず、遠距離・近距離・ポストの裏からでも、どこからでも自在にシュートを決める能力は天才的なものがある。

また、高さのあるヘディングと精密でパワーのあるフリーキックも得意で、パス技術も規格外。

 

獅子王」の由来はバティストゥータが、金髪を振り乱しながら叫ぶその姿から来ている(・∀・)

バティストゥータには4人の兄弟の中の唯一の男の子で、3人の姉妹とともに育った。

幼い頃はバスケットボールが大好きで、バスケットのアルゼンチン代表になること。そして、オリンピックに出場することを夢見ていた。

また、学業優秀な少年で、医者を志したこともあった。

1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会。このワールドカップがバスケット少年だったバティストゥータの運命をゆっくりと、しかし大きく変えることになる。

1978年はバティストゥータ9歳の時。ワールドカップで「マリオ・ケンペス」のプレーを目撃する。

この時サッカーにちょっとだけ興味を抱き始める。

しかし、本格的にサッカーを始めるのは8年後の17歳の時

人並外れた運動能力で17歳からサッカーを始め、才能開花!

地元アルゼンチンのクラブ「レコンキスタ・サンタフェ」入団。人並外れた運動能力で頭角を現すまでのそれほど時間はかからなかった。

1987年.バティストゥータの存在と能力を知った、クラブ「ニュエルス・オールドボーイズ」からの誘いを受ける。

ここから「獅子王」バティストゥータのサッカー人生が本格的にスタートすることになる。

しかし、プロとてのキャリアをスタートしたバティストゥータは、加入当時は目立った活躍ができずに苦しみの日々を送る。

その後、名門「ボカ・ジュニアーズ」(アルゼンチントップクラスのクラブ)へと移籍。

そして、1990年に結婚するのだが、この結婚相手のイリーナが「アゲマン」だったのか、ボカ・ジュニアーズでは得点を量産、翌年1991年にはアルゼンチン代表まで登りつめる。

南米選手権ではチームのエースとして活躍。7ゴールを記録し、母国アルゼンチンを南米チャンピオンに導く。

この大会後には、イタリア・フィレンツェを本拠地とするクラブ「フィオレンティーナ」への移籍の話が決まる。

イタリアはバティストゥータ祖父の生地で、このイタリアでさらに大きく成長を遂げる。

移籍したその年から驚異の「13得点」を挙げ、さらに翌年にはそれを上回る「16得点」を記録。

チームそのものは2部に降格。しかし、フィオレンティーナ残留を表明する。

翌年のワールドカップを控えた大事な時期に残留を表明したことで、バティストゥータはフィレンツェの英雄となった

どのチームも血眼になって欲しがった選手

1994年ワールドカップ・アメリカ大会では、対ギリシャ戦でハットトリック(1試合に一人で3得点以上決めること)。通算4得点を記録。

アルゼンチンはベスト16の成績に終わり、満足のいく結果ではなかったが、バティストゥータ自身は94・95シーズンに11試合連続ゴールという新記録を樹立。この時シーズン通算26得点。得点王に輝く。

そんなバティストゥータを世間が放っておくわけもなく、いくつものビッグクラブがバティストゥータ獲得に躍起になった。

しかし、バティストゥータは残留を貫き、フィオレンティーナを強豪チームへと成長させる。

しかし、フィオレンティーナ・フロント陣の無理な経営からチームが財政難に陥ることとなり、多くの主力選手を放出する事態となる。

当然バティストゥータはその筆頭である。

2000年、約40億円の破格の移籍金で「ローマ」へと移籍。

その年の2000/01シーズンは「20得点」を挙げ、念願のスクデット獲得(リーグ優勝)達成。

 

その後も大きな期待を背負ったバティストゥータだったが、膝の故障など怪我に苦しみ、本来の輝きを失いつつあった。

その後2003年、カタールのクラブ「アル・アラビ」へと移籍。

2003・04シーズンには「25得点」を挙げリーグ得点王に輝き、その存在感をアピールした。

しかし、2005年に現役引退を発表した

 

バティストゥータのサッカー人生を振り返ると、人間には大切な「引き際」「やめ時」ってあるんだなぁと思う。

僕は、バティストゥータはもっとやれたと思う。

でも、引退という選択は間違っていなかったとも思う。

全盛期の力を失った姿をファンには見せたくなかっただろうし、誰よりもバティストゥータ本人がその姿を見たくなかっただろう。

スポーツでも芸能の世界でもそうだけど、過去の栄光にすがって、しつこくやって痛々しい人っているじゃない(´・ω・`)

バティストゥータが叫び・咆哮する姿が見れなくなったのは残念だけど、カッコイイ大人の幕の引き方・後ろ姿を見せてもらえた。

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