[ワールドカップ連載・第14回]ストライカー英雄伝説~イブラヒモビッチ編~

[ワールドカップ連載・第14回]ストライカー英雄伝説~イブラヒモビッチ編~

ども~。つぶおです~。

今年に入って、関東地区を中心に天気が大荒れになった日が多かったけど、

ああいう時って街の様子が報道されるよね。

台風直撃の時とかもそうだけど、暴風吹き荒れ、暴風雨とか吹雪の状態になっている中で必死に傘を差す…いや、差そうとする人がいる。

あの光景を見るたびに失笑してしまう(-_-)

傘は裏返って、持っているのも大変な状況。

そもそも、傘が傘として機能していない

なのに何であんなにも必死に傘を差すことにこだわるのか…。(´・ω・`)不思議だ。

 

さて、今回の英雄。

北ヨーロッパの「スウェーデン(王国)」からご紹介したい。

王国というからには王家があり、王様がいる。王様ってなんかいいね( ・∀・)☆彡

スウェーデン・アカデミーが主催するノーベル賞はあまりにも有名だね。

そんなスウェーデンで最も盛んなスポーツ。それがサッカーである。

スウェーデンの英雄・イブラヒモビッチ

「ズラタン・イブラヒモビッチ」これがこの人の本名でフルネーム。

サッカーファンや親しい人の間では、「イブラ」とか「イル・ジュニオ(=天才)」と呼ばれることもある。

1981年、イブラヒモビッチはスウェーデンのマルメに生まれる。

とはいうものの、イブラヒモビッチはスウェーデン人の血筋ではない。

ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の父。クロアチア人の母を持ち、イブラヒモビッチとは「イブラヒムの息子」という意味で、バルカン半島の人たちに多い姓。

この流れで、イブラヒモビッチはスウェーデンとボスニア・ヘルツェゴビナの2つの国籍を持っている。

イブラヒモビッチは6歳の幼い頃からサッカーを始め、その当時からストライカーの片鱗を見せていた。

4点差で負けていた試合を、途中交代したイブラヒモビッチ一人で8得点を挙げてひっくり返したという伝説がある。\(・o・)/!

 

 

1995年、イブラヒモビッチ14歳の年に、地元スウェーデンのクラブ「マルメFF」と契約を結ぶ。

そして、1995年にデビューを果たす。

しかし、イブラヒモビッチデビューのこの年、マルメFFは2部リーグに降格Σ(|||▽||| )。

主力選手が続々と移籍する中、イブラヒモビッチはこれをチャンスと捉えて残留を決める

その翌シーズンにはレギュラーを獲得し、クラブの1部リーグ復帰の原動力となった。

クラブ内が混乱する中、冷静な判断で残留したことが今のイブラヒモビッチを生んだのかもしれない。

 

徐々にその頭角を現すイブラヒモビッチをビッグクラブが見逃すはずもない。

アヤックス・アムステルダム」(イングランドのサッカークラブ)や「アーセナル」(オランダのサッカークラブ)など、名だたるビッグクラブが「未来の天才」イブラヒモビッチ獲得に積極的に動き出す。

アーセナルには、監督から背番号「9」(エースストライカーに与えられる番号)の保証などの条件を持ちかけられた。

しかし、2001年7月。10代選手としては破格、クラブ史上最高額となる

780万ユーロ(約10億2200万円)」の移籍金を提示したアヤックスへの移籍を決める。

 

このアヤックスで栄光の背番号「9」を継承する。

この「9」は、「ファン・バステン」「クライファート」「ヌワンコ・カヌ」などのアヤックス歴代のスーパースターたちが背負ってきた番号。

好成績でレギュラーの座を不動のものに

2001/02シーズン。イブラヒモビッチは、オランダカップ決勝で決勝ゴールを決める。

2002/03シーズンはチャンピオンズリーグクラブチームのヨーロッパ大陸選手権)で4得点を記録。

さらに、エールディビジ(オランダプロサッカーのトップリーグ)で10得点を記録。

イブラヒモビッチはレギュラーの座を不動のものとした

翌シーズンは、足の故障から3ヵ月欠場するも、復帰後の16試合で13得点を記録。クラブのエールディビジ(オランダプロサッカーのトップリーグ)優勝に貢献した。

 

そして、2004年。1900万ユーロ(約26億円)の移籍金で「ユヴェントス」(イタリアのクラブ)に移籍。

移籍当時ユヴェントスには、「デル・ピエロ」「トレゼゲ」の2大ストライカーがいて、イブラヒモビッチは3番手のFW(フォワード≒ストライカー)との認識が強かった。

しかし、2004/05シーズン。開幕戦からセリエAデビューを果たす。

そして、この試合からゴールを挙げる。

前述の2人のストライカーが故障したことも追い風となって、

「名監督」カペッロの信頼を獲得する。

それから、実質ユヴェントス攻撃陣の柱となったイブラヒモビッチ。

このシーズンで、35試合16得点の成績を残す。

クラブは王者「ACミラン」から王座奪回を果たす。

翌、2005/06シーズン。イブラヒモビッチの勢いは止まらず、ユヴェントスのセリエA首位独走の大きな原動力となる。

 

2006/07シーズン。事件が起こる。

所属クラブ「ユヴェントス」に「審判操作疑惑」が持ち上がり、クラブはセリエBへ降格

この事件は、イブラヒモビッチにも影響を与えた。

2006年。2460万ユーロ(約37億円)の移籍金でユヴェントス最大のライバルインテル」への移籍が決まる。

2006/07シーズンはインテルのイブラヒモビッチとして15得点を記録。

インテル通算15度目のスクデット(=優勝のこと)に貢献した。

さらに、翌2007/08シーズン。セリエAで17得点を記録。再びインテルのスクデットに貢献した

さらにさらに2008/09シーズン。25得点を記録し、インテルのリーグ4連覇に貢献した。

そして、イブラヒモビッチ自身は、リーグ得点王のタイトルを獲得。

この、2008/09シーズン終了後、「セリエAでやることはもうない」と発言。

移籍のウワサが二転三転する中、

2009年7月、「サミュエル・エトー+移籍金4600万ユーロ」とのトレードが決定。

スーパースター軍団「FCバルセロナへ」移籍することになる。

 

移籍デビューの2009/10シーズン。

徐々にバルセロナのスタイルに馴染んでいき、リーグ開幕戦からゴールを奪う。

そして、この「開幕戦から5戦連続ゴール」というバルセロナのクラブ記録を樹立した。

しかし、シーズン後半はケガに苦しみ、ベンチでイブラヒモビッチの姿を見る機会が増えた

このシーズンは、出場29試合。16得点を記録した。

サッカー界の天才、ゴールデンフット賞を受賞

2010年8月。「ACミラン」へレンタル移籍(現在所属しているチームとの契約を保持したまま、期間を定めて他のチームへ移籍する制度)。

2010/11シーズン。ミラン1年目からクラブの中でイブラヒモビッチの存在は大きなものとなる。

シーズン14得点を記録。ミラン7季ぶりの価値のあるスクデットに大きく貢献した。

その後、ミランが買い取りオプション(移籍金2400万ユーロで4年契約の完全移籍が可能になるオプション)を行使し、ミランへ完全移籍

2011/12シーズン。ミラン不動のエースストライカーとなったイブラヒモビッチは好調を維持する。

リーグ戦の自己最多となる28得点を記録。さらに、自身2度目のセリエA得点王のタイトルを獲得した。

2012年、「パリ・サンジェルマンFC」(フランスのサッカークラブ)へ移籍。

10月18日にはゴールデンフット賞(名選手の「黄金の足」の型を取り、モナコの通りに並べる、サッカー選手の「殿堂」を作る企画。簡単にいうと「殿堂入り」)を受賞した。

 

イブラヒモビッチはフランスでも力を発揮、リーグ30得点を挙げる活躍を見せ、リーグ・アン得点王の獲得。MVP・最優秀選手賞の受賞

クラブを19シーズンぶりのリーグ優勝へと導いた。

195㎝・95㎏のデカい体からは想像できないような繊細なボールコントロール。

時に豪快に、時に絶妙なタッチで決める芸術的なシュートがイブラヒモビッチの魅力である。

こんな巨人が全力疾走で突進して来たら恐怖だろうね(;´・ω・)

イブラヒモビッチのような一流のプロスポーツ選手が、巨額の移籍金で移籍や契約するニュースを聞くと、単純に「すごい」とか「羨ましい」と思ってしまうけど、移籍する選手本人にとってはその金額よりも大きな責任とプレッシャーがかかるんだろうとも思う。

特に、サッカーの世界ではたくさんの国を渡り歩くことも少なくない。移籍先での環境適応能力も必要な世界である。

また、世界のサッカーファンは厳しく激しい。これもコワいね。

だた、しっかりと結果を出せばとっても優しいんだけどね。

イブラヒモビッチには「エゴイスト」の称号も与えられているけど、周りに気を遣うばかりではここまで登ってはいけないだろう。

やはりイブラヒモビッチはサッカー界の「天才」なのだ。

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