[ワールドカップ連載・第8回]ストライカー英雄伝説~ロベルト・バッジョ編~
ども~。つぶおです~。
キッチンに置いてくと便利な三角コーナー。
もしかしたらそのまま使っている人もいるのかもしれないけど、僕はその内側に専用のネットを付けて使っている。
キッチンが非常に衛生的に保たれて便利なんだけど、一ついつも迷うことがある。
それは、「ネットをいつ捨てるのか?」ということ。
どれくらい溜まったらみなさんは捨てているのだろうか…(´Д`;)
さて、今回の英雄。
イタリアといえば、ピザにパスタ。そしてフェラーリ。
イタリアの男の人ってみんなモデルばりにカッコイイよね。
日本人が真似したら恥ずかしくて外を歩けないようなカッコでも、すごくカッコよくなるのがイタリア人。
そんなイタリアサッカー界の英雄をご紹介しよう。
イタリアの英雄・ロベルト・バッジョ
「ロベルト・バッジョ」これがこの人の本名でフルネーム。そのままで(;・∀・)スミマセン
「イタリアの至宝」とも称される名選手。
バッジョって角度によってはカリスマドッグトレーナーのシーザーに似てるよね。知ってる?( ̄▽ ̄;)
1967年2月。バッジョはイタリア・カルドーニョという街に生まれる。
8人兄弟と両親という家族構成の大家族で育った(バッジョは6番目)。
日本の大家族といえばビッグダディだけど、あんなにうっとーしい両親ではなかった。ぜんぜんビッグじゃないし ヽ(`-´#)ノ
経済状態はビッグダディ一家に近く、裕福とは言えない家庭で育ったが、貧しい中でも家族の仲は非常に良く、バッジョは心豊かな少年時代を過ごした。
バッジョ12歳の時、地元イタリアのサッカークラブ「ラネロッシ・ビチェンツァ」に入団。
1982年.バッジョ15歳の年にデビューを飾る。
徐々に存在感を出し、試合への出場時間も増えていった。
バッジョにとって「ラネロッシ・ビチェンツァ」での最後のシーズンとなる1984・1985年のシーズンでは、「29試合出場・12得点」を記録。
バッジョの活躍が大きな力となり、チームはセリエB(イタリアのプロサッカーリーグ)へと昇格。
そして間もなく「ロベルト・バッジョ」の名は、イタリア中へ轟くこととなった。
そんな中、フィオレンティーナ(イタリア・フィレンツェのサッカークラブ。日本人ファンも多数)がバッジョ獲得へと積極的に動き、バッジョを獲得する。
誰もがこのままバッジョはフィオレンティーナで大活躍するだろうと思っていた矢先、バッジョを悲劇が襲う。
フィオレンティーナ移籍から2日目。右膝十字靭帯断裂(スポーツ選手に多い歩行すら困難になるケガ)の大ケガに見舞われる。
このシーズンは絶望となり、翌シーズンもケガの様子を見ながらのシーズンとなる。
2年もの時間をかけて、やっとケガから立ち直ったバッジョ(´▽`)
1988年.アズーリ(スポーツのイタリア代表チームのことをこう呼ぶ。女子は「アズーレ」)のユニフォームを着て、オランダ戦のピッチに立つ。
その翌年の1989・1990年シーズンでは、32試合出場・17得点の大活躍見せた(^o^)ノ
1990年は、地元開催のワールドカップ・イタリア大会の年。
この大会でバッジョはエースストライカーとして活躍。
イタリア代表チームは、優勝は逃したがバッジョの得点などで3位決定戦を制し、世界3位の結果を残す。
またこの年、地元イタリアの名門クラブ「ユベントス」がバッジョ獲得に動いた。
バッジョの功績よりも、巨額の移籍金を選んだ「フィオレンティーナ」。
バッジョを放出するというふざけた決断をする。
バッジョ放出に憤慨したサポーターは痛烈にフィオレンティーナを批判し、暴動騒ぎまで起こった。
移籍はバッジョの意思ではない。
こういった動きにはバッジョも嬉しさと戸惑いがあったと思う(m´・ω・`)m
不遇に見舞われたバッジョ
移籍金の誘惑に負けた「フィオレンティーナ」から「ユベントス」に移籍した後、
ユベントスのユニフォームを着て、フィオレンティーナの本拠地・フィレンツェに戻ってきたバッジョは「裏切り者( ̄◇ ̄;)」と呼ばれた。
バッジョにボールが渡るたびに、会場中からブーイングが巻き起こった。
ブーイングって実力のないショボイ選手には起こらないからね。ブーイングは力の証でもある。
この試合の後半。ユベントスがPK(ペナルティキック)を獲得。これを決めれば試合での勝利を決めることができる。
当然キッカーはバッジョ…のはずだったが、バッジョは蹴ることを拒否した。
監督がブチギレてすぐ交代させられたけど、
会場のスタンドからは割れんばかりの拍手がピッチを去るバッジョに送られた。
この年ユベントスUEFAカップ優勝に加えて、バッジョ個人では、FIFA(国際サッカー連盟)最優秀選手賞。さらにバロンドール(世界最高のサッカー選手に送られる賞)受賞。
そんな中、すぐにユベントスのエースとなり、1992・1993シーズンではユベントスをUEFAカップ(現在のUEFAヨーロッパリーグ・ヨーロッパ最強クラブを決める大会)優勝へと導いた。
そして、1994年ワールドカップ・アメリカ大会。
優勝候補と目されたイタリア。バッジョを中心に力を発揮し、決勝の舞台へ上がる。
決勝の相手は「ブラジルヽ(´Д`;)ノ」。
一進一退が続き両チーム0点のまま、試合はPK戦へと突入。
イタリア2、ブラジル3ゴールの中(PK戦は両チーム5人づつが蹴り、ゴール数を競う。5人が蹴ってドローの場合はサドンデス。)
迎えたイタリア最後のキッカーはロベルト・バッジョ。
ワールドカップ決勝の大舞台。ここで決めるとドラマチックなんだろうけど、現実はそうはいかなかった。
疲れきったバッジョの力ないシュートはゴールを外れる。
しばらくうつむいていたバッジョ。
ワールドカップを掲げて歓喜するブラジル代表チーム。
うずくまり動けないチームメイトたちをバッジョは抱きかかえて慰める。
これはね…ほんとにかっこよかった。喜んでいるブラジル代表が滑稽に見えるほどにね(´-ω-`)
それからのバッジョ。これまでのようにはいかなかった。
ユベントスに威勢のいい若者「アレッサンドロ・デル・ピエロ」が加入。
バッジョは「ミラン」へと放出される。
外国のプロチームってシビアだよねぇ。(昔は活躍した)使いものにならない選手を、大金を払ってまで置いておく日本のプロ野球とは大違い。
不遇の時代が長かったが、最後には復活を果たす
ミランに移籍したバッジョ。ここでも落ち着くことはできなかった。
チームの戦術に疑問を感じ、監督ともウマが合わない゚(゚´Д`゚)゚。当然試合にはなかなか出してもらえない。
見切りをつけたバッジョは「ボローニャ」に移籍。
ここでやっと活躍するバッジョの姿が見れた。
そして、1998年ワールドカップ・フランス大会に出場。
しかし、結果はイマイチだった。
その後、再び「インテル」へと移籍。ここでもウマが合わない監督登場。゚(゚´Д`゚)゚。。さらにケガばっかり。
バッジョもうダメかなぁと思った。
しかし!ここで終わったら英雄とは言えない。ここからバッジョは復活する。
「ブレシア」へと移籍したバッジョ。
ここの監督だった「カルロ・マッツォーネ(´∀`)」と出会い、復活する。
「マッツォーネ」はバッジョを自由にプレーさせた。
それまで縛り付けられていて発揮できなかったバッジョ本来のパワーが爆発する(・∀・)
全盛期と何ら変わらない動き。再びバッジョの時代が訪れた。
バッジョがサッカーキャリアに終止符を打ったのは、
2004年5月のこと。
最後の試合は負け試合となってしまったけど、割れんばかりの歓声と、終わらないスタンディングオベーションがバッジョに送られた。
ちなみに、バッジョが最後のキャプテン時代に腕に巻かれていた腕章には「必勝」の文字が刻まれていた。いいね!( ・∀・) !
「ファンタジスタ」という言葉を聞いたことはあるだろうか?
これは最高のストライカーに送られる呼称で、イタリアのファンタジスタはまぎれもなく「ロベルト・バッジョ」である。
そして、世界で唯一のファンタジスタとして「ロベルト・バッジョ」の名前を挙げる人も多いだろう。
一体誰が中村俊輔をファンタジスタって呼んだんだ。違うだろ。
その理由は、バッジョのストライカーとしての能力ももちろんあるけど、そのプレイの美しさにあると思う。
美しいストライカー、そして世界のファンタジスタ。それが「ロベルト・バッジョ」である。