[ワールドカップ連載・第7回]ストライカー英雄伝説~ベッケンバウアー編~
ども~。つぶおです~。
スーパーとかコンビニに買い物に行くと、たまに…いや、よく見る光景がある。
商品が並んでいる棚から商品を取る時に、普通なら一番手前の商品を取るよね。
少なくとも、僕ならそうする。
しかし!後ろの方から取る輩がいるんだね。意外とたくさん。
あれはどういう気持ちで取っているのかと考えると、新しい商品は奥にあるから手前の古いのは要らないってことだろうね。
それは心情としてはわかる。でも、人としてどうなんだろうね。
自分が商品を売る立場に立ったらわかると思うんだけど、きっとわからないんだろうね。
だからそうしてるんだろう。
新しくても古くても値段は変わらない。でもさみしい気持ちにならないのかな。
手前に残ってしまった古い商品は、廃棄処分されていろんな意味で不利益になる。
こんなのが減らないなら賞味期限を非表示にしてワゴンセールにするか、全部自販機にしたらいいと思う。
さて、今回の英雄。
今はドイツは一つだけど、僕がかわいい子供だったころ、西ドイツと東ドイツに分かれていた。
これは、そんなに昔ではなくて「ベルリンの壁」が崩壊した1989年の11月までの話。
若い人たちは歴史の授業で習ったりしたかもしれないね(*´∀`*)
今回は、(旧)西ドイツ出身の英雄の話。
こってりとしたバリバリのストライカーという選手ではないけど、英雄としてふさわしいので、
このカテゴリーでご紹介する。
※以下、旧西ドイツも「ドイツ」と表記。
ドイツの英雄・ベッケンバウアー
「フランツ・アントン・ベッケンバウアー」これがこの人の本名でフルネーム。
この名前を聞くとギターの「リッケンバッカー」を思い出す(^_^;)
「皇帝」というニックネームで呼ばれることもある。
リッケン…ベッケンバウアーは、第2次世界大戦が終わって間もない1945年、ドイツのミュンヘンで生まれた。
日本同様にドイツも敗戦国となり、ドイツ国内は暗雲立ち込めた雰囲気だったと思われる。
幸いにもベッケンバウアーの父は郵便局員という安定した仕事についていたので、戦後の混乱に巻き込まれることなく育ててもらうことができた。
幼い頃からサッカー漬けの生活を送っており、復興もままならない環境の中、ストリートサッカーなどでサッカーで技術を磨いた。
1954年.ベッケンバウアー8歳の時。本格的にサッカーを始めることとなる。
この当時のポジションは、左ウイングやセンターフォワード(最前線で得点を取ることを主な役割とするポジション。簡単に言うとシュートして点を取る人)だった。
また、この年は第5回目のワールドカップ・スイス大会が行われた年でもある。
1950年からワールドカップが再開されていたが、当時ドイツは占領下に置かれていてワールドカップの参加を認められなかった。
(→ちなみに日本も同様の理由で出場を拒否されている。また、インドは参加を辞退した。理由は「裸足じゃダメって言われたから。」)
ドイツがワールドカップに出場できなかった4年後のこの年。ワールドカップ・スイス大会。
なんと!ドイツが優勝する!!
この優勝は大番狂わせで、当時サッカー最強と言われていたハンガリーを決勝で破っての優勝だった。
今でも毎回ワールドカップでのドイツは侮れない存在だけど、この頃からすでにその片鱗があるね。
当然、少年だったベッケンバウアーはこの大会の模様を興味深く聴いていて(当時はベッケンバウアーはラジオ観戦していた)、
大活躍した旧西ドイツ代表のキャプテン「フリッツ・バルター」に強烈に興味を惹かれる。
そして、さらに上のサッカー選手を目指して、1958年ベッケンバウアー12歳の時、
地元ドイツのクラブ「バイエルン・ミュンヘン」へ入団。
この頃から、ベッケンバウアーは「プロ」を意識し始めたと思われる。
5年後の1963年にドイツ・サッカープロリーグである「ブンデスリーガ」が発足。
Jリーグの発足が1993年だから、日本のサッカーがなぜこんなに遅れているのかがわかる。
このブンデスリーガには現在、内田篤人や阿部拓馬が所属している。
バイエルンと聞くと美味しいビールとソーセージが欲しくなるね( ゚v^ ) 。僕だけかな。
20歳にしてドイツ代表へ
「バイエルン・ミュンヘン」は当時2部リーグ(JリーグでいうとJ2)だったが、ベッケンバウアーが入団したことで力を倍増させたチームは、すぐに上位の1部リーグへの昇格を決めた。
そして、後に黄金期☆彡とも呼ばれる「ベッケンバウアー」と「バイエルン・ミュンヘン」の快進撃が始まる。
1965年当時にはベッケンバウアーはプロ選手となっていたが、この時20歳の若さで、ドイツ代表としてデビューする。
これがベッケンバウアーが世界に飛び出した瞬間であり、ベッケンバウアー伝説の始まりでもある。
超人的なサッカー技術は誰の目から見ても他に類を見ないもので、
無名のドイツ人「ベッケンバウアー」の名は、アッという間にヨーロッパ中に轟くこととなる。
翌年の1966年、ワールドカップ・イングランド大会では、ドイツ代表として獅子奮迅の活躍。
決勝までにベッケンバウアーは4得点の活躍を見せ、ドイツは決勝進出を果たす。
決勝では敗れてしまうが、ベッケンバウアーはワールドカップに大きな存在感を残す結果となった。
1970年、ワールドカップ・メキシコ大会。
ベッケンバウアーとサッカーファンに強烈な印象を残す試合が行われた。
それは、準決勝の「西ドイツVSイタリア」戦。
後に「アステカの死闘」(試合会場は「アステカ・スタジアム」)と呼ばれることとなった死闘は、
今でもサッカーファンの間で語り継がれる試合である。
後半のロスタイム(公平性を期すために、選手の手当などで試合が止まった分の時間を延長してプレイする時間)
まず、ドイツが同点に追いつき、さらに延長戦の前半に勝ち越し。
さらにその後、イタリアが2点を追加し再逆転。
またさらにドイツが1点を返し、さらにさらに同点に追いつくという、ワールドカップ史上最高のシーソーゲームとなった。
結果としてドイツが最後の同点ゴールからすぐ後に勝ち越されて準決勝で姿を消したが、
結果以上にドイツが圧倒的な存在感を残した試合だった。
ベッケンバウアーが延長戦では右肩を脱臼(相手選手のファール(タックル)によるもの)していたが、強行出場したことでも知られ、多くの人に感動を与えた試合でもあった。
この2年後の1972年に行われた欧州選手権では、チームは優勝を果たし、この年のバロンドール(世界最高のサッカー選手に送られる賞)を獲得。
その後UEFAチャンピオンズカップ(リーグ)優勝を果たす。
ベッケンバウアーにより 「リベロ」が確立される
世界のサッカー界における、ベッケンバウアー最大の功績とも呼べるものがある。
それが、「リベロ」と呼ばれるポジションの確立である。
サッカーのポジションに「DF・ディフェンダー」と呼ばれるものがあるが、その名のとおり本来は守備を主体とするポジションである。
その概念を覆し、時には攻撃に参加。さらに試合全体の司令塔となる役割を持つポジションがベッケンバウアーが作り出した「リベロ」である。
このリベロとして活躍するベッケンバウアーの姿が「皇帝」と呼ばれることとなる。
母国で行われたワールドカップ・西ドイツ大会では、ライバルでオランダの英雄「ヨハン・クライフ」との激戦を繰り広げる。
軍配は、終始クライフを押さえ込んだベッケンバウアーに上がり、西ドイツ代表がワールドカップ世界一に輝く。
さらにその後には、「バイエルン」でUEFAチャンピオンズカップ(リーグ)3連覇を達成。
ヨーロッパ全てのタイトルを獲得。
アメリカで1年間、「サッカーの神」ブラジルのペレとプレーする。
現役引退後は、監督として西ドイツを率い、1986年のワールドカップ・メキシコ大会で決勝進出。
1990年ワールドカップ・イタリア大会で、監督としてワールドカップ優勝を果たす。
現在は、「バイエルン会長」「ドイツサッカー協会副会長」「2006年ワールドカップ招致委員会会長」2006年のワールドカップ誘致に成功し、「大会組織委員長」として手腕を振るった。
ベッケンバウアーのサッカー人生はまさに王道と呼べるものだろうと思う。
しかし、王道に近道はなく、ベッケンバウアー伝説の裏にはたくさんの苦労があったとも思う。
長い年月の中、ドイツという国が混乱の極みにあった時代に、サッカーというスポーツを通じて国民を鼓舞し、たくさんの功績を残した。もちろん今尚ドイツに貢献する存在である。
「努力する」という才能がある。
特にスポーツの世界で伝説となった人たちの中に努力しなかった人はいない。
すべての人が努力できる機会を与えられているけど、努力する才能がないと、それを成功には導けない。
天性の才能。それが「努力」。
違う時代、混乱の時代を生きてきたベッケンバウアーを思うとそう思う。